五感と共にある暮らし

今日の家仕事の一コマ、傷んだかまどの補修のため、子どもらと一緒に粘土をコネコネ
出来上がりは足裏の感覚で、しっかりと粘りが出るまでこねていきます。
身体を使った家仕事は力だけでなく、色々な感覚を使います。
農のある暮らしとはまさに五感と共にある暮らしです。
今日は長年携わった身体のことを、「感覚」のことをまとめてみたいと思います。
感じて動く
生き物は五感(触覚、聴覚、味覚、嗅覚、視覚)を使って、身のまわりの環境の情報を脳で処理することで
行動(何をするか)を決めています。
つまり、感覚がなければ行動も成り立たないということ
これは当たり前だけど、大事なこと
はじめて体験することを除き、日常では何を感じているのか考えて行動することはなく、ただ当たり前のようにすごしているはず。
でもその根っこには感じることが必須ということは意外と忘れていることかもしれません。
そして人間を含めて生き物は動くことで生理的な働き(食べて、消化して、吸収して、など)が円滑に機能するように出来ているので
感じなくなったり、動かなくなったら、身体全体の機能が低下してしまうという事も忘れてはいけない事実です。
感覚が麻痺する
じゃあ感覚がなかった(麻痺した)らどうなるのか
正座していて立ち上がれなくなった経験をしたことある人はけっこういるんじゃないかと思います。
長時間正座していると、自分の体重で圧迫されて血行がわるくなって痺れたり、ひどくなると一時的に神経が麻痺することがあります。
感覚が麻痺すると、足首が動かなくて足の裏をつけられなくなったり、足裏の感覚がなくて踏ん張りがきかなくなったりします。
これは原因がはっきりしているし、変化が大きいので、理由もはっきりわかりますが
もし緩やかな変化で鈍くなっている場合は、なかなか気づけないかもしれません。
感覚をセーブする
はじめに書いたとおり、人を含めて生き物は感じることで行動しています。
でも感じたことを意識することは少ない(無意識には感じている)
ややこしいかもしれないけれど、感じているけど、感じてることを自覚しないようにしている。
正確にいえば、感じたことを全部自覚していると脳で処理できなくなってしまうので、なかったことにしている。
例えば、混雑したカフェでも会話が成立するのは、まわりの音をミュートして、仲間の会話に耳を合わせているから。
もしまわりの会話や音を全部拾ってしまったら、聖徳太子でなければ頭がパンクしてしまいますからね。
感覚を閉じる暮らし
「今思えば満員電車には自分のスイッチを完全にオフしなければ乗ることが出来ないと思う」と話す人もいましたが
知らず知らずのうちに感覚を閉じることで、不快な条件をなかったことにしている人もいるかもしれません。
自分の経験ですが、移住してしばらくすると、都内での仕事の合間にはかならず近くの公園をみつけて過ごすようになりました。
少しでも人混みを避けたいと感じるようになったんです。
都市部では、店も多く、色々な音やにおいが入り混じり、広告の溢れたなかで、多くの人が行きかってます。
情報が多すぎて、すべてを受け入れていては頭がつかれてしまうのかも
人はほとんどを視覚から考える
生き物によってそれぞれ優れた感覚が違いますが、人は外からの情報のほとんどを視覚に頼っていると言われています。
ちなみにフクロウが視覚の頼りにならない暗闇でも、聴覚で獲物の位置を把握して狩りをするというのは割と知られているんじゃないでしょうか。
最近は対面を避ける世の中でオンライン化が進む一方ですが、今のままの状況はさらに視覚中心になって、どんどん他の感覚を鈍くしてしまうんじゃないかと気になっています。
感覚を開く
はじめに書いた通り、農のある暮らしは五感を養うにはもってこいです。
「モアナと伝説の海」にも描かれてますが、先住民の航海術として、自らの手で星を測り、風の流れを読み、海水の流れと温度から進むべき方向を定めるというシーンがあります。計測器など何もない時代に生きた人は視覚だけでなく、身体全部の感覚を開き、行動していたんでしょうね。
現代に生きる場合はそこまで高度な感覚は必要としないまでも、自らの健康を保つうえでの最低限の感覚、感度は持ち合わせていたいなと常々思います。
お手伝いは10分で終了、天気も良く暖かい日差しのなか、そのまま水遊びに突入しました(笑)